気づきつづり

ボーっとしているときにフワッと湧く気づき。それをどこかにつづりたくて・・・

あなたの為はニセモノ

自分の経験と体験上、

そして人の言動を観察した上で、


人のため、と考えてする事には

ほぼ、間違いなく それは自分のためを

すり替えて事をコントロールしようとしている基がある。


あなたの言動は誰々さんに対して迷惑じゃないかしら?という私が受けた注意も


私がした、誰々さんが大変だから

こうしたら如何かしら?の提案も


基にあるのは自分の都合や自分が悪くなりたくないから、とか理由がある。


注意や提案のすべてが偽物ではない。

それは感じ取れる。

しかし、偽物と感じた時、どーすればいい?


自分がしたニセの思いやりは

ただひたすら ずるかったね。と認めて自分を受け入れる。


多分、本物の人のためになること、思いやりは


理由も理屈も説明もつかないもの。


きっと私にも本物の思いやり、誰かのため

は出来てたかもしれない。

記憶してないから、説明できないから

無いのではない。

本物だったら自分には残らないものなんじゃないかな。

だから、もしかしたら自分は誰のためにも何の思いやりも持てない人間なんじゃないかと恐れずに

自分を信じて

ここに決意する。


私は誰かのために、人のためにと意識する事はもうしない。

自分のために、と思うことだけする。

6月22日

去年はハワイに行った。

一昨年は初めてのタイへ。

そのまた前の年は軽井沢へ。

そのまた前の年、初めて誕生日は特別に過ごそうと決意し始めて1人で軽井沢へ。

 

この4年、恒例にしてきた。

年々、グレードアップさせて来た。

年々、グレードアップするものと信じて疑わなかった。

 

今日、6月22日、私はここ2カ月間の同じような時間の過ごし方で

気力のない無職のまま昼過ぎまで顔も洗わない状態で家にいる。

 

今までにないと感じるくらいに自分の次元、時空が変わったと感じた時も

何度もあったのに。

もしかしたら、それこそが自力でありのままを受け入れずにあがいている証拠なのかしら。

だとしたらあまりにも悲し過ぎるじゃない?

 

それでも私はまだ信じている。心の底に虹が見える。

 

必死に向き合って自分を認め受け入れて励ましてポジティブなアファメーションをし

本当に疑いも一切なくなって、そして、また落ちる。

これは間違いなくホメオスタシス現象。元の状態に戻して維持しようとする機能が働いている。

それが苦しくて変えようとしているのに、これをエゴの仕業と言うのか科学的に解明されている起きて仕方のない機能。脳なのかどこなのか知らないけど元の状態が安定していると見なして起こる。 

 

だからこれを「私がダメ人間だからなんだ」と決定する現実にはしないこと。

ただ人間誰しもがもっている機能が働いているところなんだと理解する。

 

心のどこかで「どこで私はせっかく、やっと乗れたビックウェーヴから降りてしまったんだろうか?」と疑っている。

そして「いや、違う。疑わないで。良くないから。まだ乗っている最中よ。」

と言ってみる。

この2つでどちらが自然で正直かと問うと前者。それでいい。

本当のところは分からないじゃないか。

 

今、私が体験している現象を1つずつ解明して乗り切れたら同じように

苦しんでいる人たちに教えてあげたい。

 

今日、Facebookで友達になった松川さん。

投稿を読んでいると似たようなところをお持ちのような気がして。

笑顔がとっても素敵で素晴らしい女性。

大きな飛躍、分厚い壁を突破しようとしている最中に見受けられる。

きっと私もそう。

 

苦しい時、ままならない時、私は私が生まれて来た目的を生きているんだと思う。

誰かのせいじゃなくて、これを味わうために生まれてきているんだから間違いなし。

ただ、私が生まれてきた大きな目的はそれだけじゃない。

それもわかっている。

楽しむこと。活き活きと颯爽と生きること。感動し涙し笑い転げること。

どちらかだけしかないってことではないってこと。

 

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気づく先の世界

気づき

それは解放。


気づき

それは終わり。

気づいたことが腑に落ちた時、気づかずに自分を縛りつけていた思考への執着が溶けだす。固着していたエネルギーがゆるみだす。

握りしめていたために固く狭くなっていた世界が終わる。


気づき

それは始まり。

それまでの視界が消えて新しい世界が見えだす。


気づきは

ささやかでシンプル。

ごく日常の中で感じる小さなこと。

その小さな気づきに世界を変える大きなパワーと言うか、流れの始まりがあると思う。


私たちは生まれて間もなくから学校でも

社会に適応するように しつけられ教育される。

そんな世界に生まれてることで挑戦している。

みんな勇敢。

戦うのではなく、諦めるのではなく、

知らない、気づいていない世界が いっぱいあるんだ。

あるのかもしれない。と好奇心で自他を見たら

どんな世界が見えてくるのだろう。


私は もっと もっと 知りたいな。





違うことは当たり前

もしかしたら、みんな心の深い所で

自分は他のみんなと違う…

と思っているのかな。


それは素晴らしい!と感じるか、

または、寂しい、苦しいと感じるか、

違うことは当たり前と感じるか。


どうやら私は違うことは当たり前と言いながら違うままでいられないと感じてるのかな

と思う思考手順を踏んでいる自分に気づいた。


自分らしい 自分そのものの感覚を得ても

それをどうやって他の人にも分かるように表現したらいいのだろう、と考えてる。

説明しようとしている。


何度も何度も やめようと決意したような気がする。

また挑戦する。

誰かに説明しようとすること

証明しようとすることを やめる。

自分の感覚、感じるままに いる。

そうしたからと言って 無責任な在り方にはならないと安心して自分を信頼できるようになったから。

本物の感覚を取り戻せたかな

ネガティブな感情を感じないようにすると、ポジティブな感情も感じられなくなる。

とは、比較的最近、知ったこと。

 

そうなんだね。

だから私は自分の好きなことも何がしたいかも分からなくなってしまったのだな、と思っていた。

 

わざわざここに書き込むのは

私は苦労をしましたと公表したくてではない。

とても大きな感覚だったので記録したくて書き込む。

 

私が25歳のときに父の胃ガンに始まり、3年後には母の大腸がん

その後は両親が交代交代に完治の喜びつかの間で再発や、脳閉塞やが続き、両親が別々の病院に入院し1日にどちらにも通う時期もあった。

父は何とか80歳の誕生日を迎えて息を引取った。

看病が長く続いたようでも私としては苦労したとか介護を長くしたとかの意識がない。

 

最近、身近な友人たちも両親が高齢になり介護や様々な現実に直面している。

「あなたは早くからこれをやって来たんだもんね」と言われる事もあるのだけれど私は、そうなのかなぁ・・・と、大変だったとか感じなかった。

実際、私の両親はそんなに手がかからないほうだったんじゃないかなと思っている。

私は親不孝だったのに、親は子孝行で逝ってくれたなぁと思っている。

 

ところが今日も知人が義理父が入院したけれど今後の回復はあまり期待できないのだと話してくれて、色々と様子を聞いているうちに

辛いな、悲しいな、きびしいな、などを感じていたら

「私は自分が親に関わっている時、感じないようにしてきたんだ」

と気づいた。

知人のお父さんを想い、知人家族の苦悩を想い、感じているうちに

それを思い出した。

感じていたらつぶれてしまいそうで、私は無意識にも感じないようにし

やり過ごしたんだ、と気づいた。

どうであれ、1人で長い間、とてつもない事をやったんだな。

悲しくて苦しくて当たり前のことなのに。

 

それに気づいて、認めて、感じて、受け入れたら

悲しみや苦しみに飲み込まれるのではなく、感覚が戻ってきた気がする。

いわゆるネガティブな感情、苦しい、悲しい、厳しいを認めて味わったら

真逆な喜ぶ、楽しむ、幸せなどの活力が感じられるようになった気がする。

 

これはとても大きく大切な気づきだったので書きたかった。

母を看取って17年、父を看取って7年が過ぎている。

もしも、どなたかこれを呼んだ人で、私のように自分の好きなこと

やりたい事がわからないという人がいたら、遠く過ぎたことでも

何か苦しすぎて感じないようにした感情は無いか探してみて欲しい。

今、それを感じることは怖いかも知れないけれど、過ぎた今となっては

安全。それを感じたら関が伐られ人間として当たり前に持っている

本来の喜び、楽しみ、有難さ、が活き活きと感じられるようになる。

私は今まで何とか力ずくで感謝や喜び楽しみを感じようとしていた。

けれどそれらはまるで色の無いモノクロだった。

今は色を感じる。活き活きとした色や温度や感触や明るさを感じられるようになった。

 

どなたかのお役に立てるかわ分からないけれど、

私の記録として・・・。

基本的信頼感

私って、ダメ出し体質なんだよなー。

まずはダメ出しだな。

自分にしてるってことは他人にも そうしてるんだろうな。

なんてこったー。


言い訳になるけど先日、ググッてみたら見つけた

遅くても生後3歳までに「基本的信頼感」が正しく育まれなかった人は…

の特徴にぴったりと当てはまった。

私は自分の為に環境を選んで生まれて来た感が納得する程あるので親のせいだと片付ける気はない。

物心ついた時から「おまえはダメだ」しか言われた記憶がないもんなぁ。

それでもかなりの時間がかかって否定のない自己評価が出来るようになってはきている。

それでも自動操縦のように自分を疑い、どこで間違ったんだろう?やっぱりまたダメなんだという想念に支配されてしまう。


仕方ない。仕方ない。

今日は1日かけて、今日は1日中、

どんなことも、何があっても、自動操縦が働いても、

感情は隠さず誤魔化さず、それでも私は素晴らしい!

を言い続けてみよう。

また明日は明日でやってみたらいいさ。