気づきつづり

ボーっとしているときにフワッと湧く気づき。それをどこかにつづりたくて・・・

クセ

「何かが起きた時、まず最初に自分のせいだ、と思うでしょ」

は、何年か前に中学1年からの友達が私の住まいに泊まって

2人で簡単な朝食を一緒に取っている時に言った言葉。

 

私は「えーっ‼…。あ、そうだね。」「何で知ってるの?(ケラケラ」

 

会話の最初の友達の言葉は「あなたは基本、ネガティブだから」

 

私は、それをネガティブだと言うとは少しも思ってなかったよ~と言って

2人で笑い転げた。

友達って本当にありがたい。

 

自分の事って分かってないもんだ。

 

多分、幼少のころからそんな思い込みだったように思う。

大人になって人の話や書籍などからの影響で

その考え方のリンクは揺るぎないものになっていたと思う。

 

「すべては自分のために起こる」

その捉え方が「すべては自分のせいだ」「私が悪い」「私がどこかで間違えた」

きっと悪いことが起きた事態だけに限らないかもしれない。

何か良いこと、素晴らしいことが起きた時にも

「すべては私のお陰」

と無意識でも思っていたかもしれない。

自分にかけた洗脳は自動操縦ではたらく。

 

なんて傲りだ。

スピな考え方で敬遠されがちだけど

「すべては自分のために起こる」は智慧であり真実だと思う。

 

昨夜は大好きなTED でフランスの海洋活動家のプレゼンを聞いた。

「すべては繋がっている」と言っていた。

そのとおりだ思う。

 

日本語TED新着: 海を守る人は自分自身を守れる人 | ジャン=ミッシェル・クストー | TEDxRio+20 (ted-ja.com)

 

話しが飛躍し過ぎかもしれないけど

すべてが繋がっていて すべてはひとつ なら

すべては私のせいだ、は大変な傲りだ。と今朝、気づいた。

なにか大きなものの中の私たちがひとつ、ひとつで

なにか大きな力が働ていて

そこで起きた出来事に見るもの、体験する事は人それぞれで同じじゃなくて

一見、自分の落ち度で始まった出来事であっても自分を責めることなしに

観察できたらなら、自分がその出来事で感じている痛み、苦しみに

向き合うことはしても 共に痛みを負った人の世界で

どうしてあげられるか、なんて考えるのは傲りの極みだ。

 

目の前で起きてる現実は

私のため、であっても私のせいではなく

同じ現実を見ている人がどのようにそれを見て解釈しているか

私には分からない事だし、決めつけられない。

その人の分野、範囲なんだから。

 

明らかな自分の落ち度は心から謝罪できる。

私はそれ以上に 責任を果たさなきゃ、みたいな心境になっていた。

私にできることは自分に対応することだけなんだ。

自分を正直に再確認し再定義し、あり方を認めていくだけ。

人に何かできる事があるとしたらそれは

私のあり方が唯一無二の正真正銘の私の素に立ち還り

そのもので在り続けること。

 

寄り添う

思いやる

力づけたい

役に立ちたい

 

その質は、はき違えやすい。

大切におもう人の前でこそ、正真正銘の私でい続けたいたいな。

 

私をいつも支えてくれる友達。

何をする言うわけでもなく、ただ存在していてくれるだけで

私は支えられています。

本当にありがとう。