気づきつづり

ボーっとしているときにフワッと湧く気づき。それをどこかにつづりたくて・・・

ステラ

 「ステラ」という古い映画をご存じでしょうか。

制作は1990年主演はベット・ミドラー

今、ググってみても最後は号泣もの、と書かれた記事が見受けられます。

私も何度観ても最後は号泣したものです。

最近、友人とベット・ミドラーが会話にのぼり、それで思い出しました。

 

観てない方にはネタバレになってしまってはいけないのですが

最後に母の無償の愛を垣間見、ほとんどの方が号泣に至る、

というものなのですが、

ふと思いました。

 

何がそこまで人の奥深くを揺さぶり、号泣にまで至らせるのか。

私などはおえつするほどの号泣だった。

何に触れて それが起こるのか。

 

人って当たり前のこのとには、

当たり前になっている事には、

無反応じゃないですか。

ヘタしたら

当たり前だ、と認識している事には感謝しない。

買い物してお金を払ったら店員さんに品物を渡される。

家族の誰かが食事を作ってくれる。

などなど。

 

娘の最高に幸せな瞬間を ともに喜ぶよりも

見届けるだけで、その場でできる最高の愛情を娘に向ける

そんなステラの姿には私欲がなく感傷的な自己卑下もなく

地に足がついた姿勢とほほえみに号泣してしますのですが

もしも、

そう、私はそんな境地に至ったことがないので

もしも、

それが「当たり前」の人にとっては

号泣するほど胸の内を(それを何といったらよいのか)

身体の芯部から

なにか引っ張り出されるような熱いもので号泣させられたりは

しないのかもしれない。

 

ならば、なぜそれが起こるんだろ?とふと思ったわけです。

 

頭、脳、思考、記憶

そこでは理解や解釈ができない何か。

私のように出産もしてない=親になっていない。

また、両親も看取ってもう会話や触れ合う事もない

人間にとって

最初に考えたことは

「私にはこのような無償の愛が無いんじゃないか」という考え。

でも号泣までさせるそのパワーはそんなものじゃないと

どこかで分かる。

これはもしや、もしかしたら

私が忘れているか 思い出せないだけの

「私から誰かに向けた無償の愛に触れたから」

でもなく、

思考、記憶では理解や解釈できない、立体的に見ることもできない

ましてや記憶もない

「誰かが私へ注いでくれた無償の愛に触れたから」

なんじゃないかと。

 

いまだにしがみついている”らしい″私の中の

「私は愛されなかった」という頑丈なぶっとい柱がゆらぎ

深部から熱いものがこみ上げ涙がこぼれた。

 

最近、私泣いてないなぁ。最後に泣いたのいつだっけ。と思っていた。

少なくとも今、8月だけど今年は1度も泣いてないし

去年は泣いたかな?

たまに泣くのって大事。

すっきりして何かが終わる。

最近、泣いてないなと思ったら号泣間違いなしな映画とか見ると良いのだワ。