気づきつづり

ボーっとしているときにフワッと湧く気づき。それをどこかにつづりたくて・・・

かかわり

「自分は101匹目の猿ではない」と言い切れるか?

「自分1人では世界を変えることはできない」と言い切れるか?

自分が101匹目の猿だとしたら?

自分が選んだ1つの物、事が

遠く離れた1万人の人々の前提や常識に

ゆっくりと

しかし確実に波紋を広げ浸透していく。

社会や世界の常識はそんな風に仕上がってゆくのだとしたら?

 

ある意識を前提に生きている人がこの地上に100人いて

そうとは知らずに自分が目覚めた新しい意識を採用した瞬間

これまで100人の意識内で各自知らずに共有されていた意識が

101人目の到達を機に波紋のように多くの人々の意識下に広がっていく。

それが普遍的な人の意識の成り立ちだとしたら?

 

自分が選ぶどんな意識も

自分が100匹を超える1匹だと覚悟して

自分の在り方に意識的になる。

 

私たちの小さな選択は決して弱く小さなものではなく

世界に影響を与えている。

そのように捉えられたら

私たちの生活や生き方に対してもっと意識的になれて

生きる甲斐が感じられるのではないかな。

責任を担っている、と感じたら息苦しいかな

少なくとも参加しているという意識で孤独感はなくなるのでは?

 

ちっぽけな存在なんて1人もいない。

私たちは無力ではない。

私たちの選択は見えないところで

貢献となっている。

豊かさのひとつ

昔むかし、豚汁を作ろうとしたら

お肉はお肉屋さんへ買いに行き

野菜は八百屋さんに買いに寄り

揚げや豆腐は豆腐屋さんへ。

手間だった。

ニンジンや芋の皮をむき

ごぼうはカット後にアク抜きに水にしたし、

手間だった。

今はスーパーに行けば全てが揃い

すでにカットされた野菜が買えたりもする。

便利だ。

便利なシステムに思いやりを感じる。

かなり時短になっているはずだ。

余ったはずの時間はどこへ?

 

思い返すと

手間がかかって

時間がかかっていたはずの生活の方が

時間がゆっくり流れていたように感じるのは

過去への錯覚だろうか?

 

レンジでチンしたご飯に

レトルト食品を添える。

不十分ではないはずの1回の食事が10分かからずに

出来上がる。

 

手間がかからずに出来上がった食事と

手間がかかった食事に

違いを感じる感覚は各自の思い込みだろうか?

 

時短したその時間とは

味わう時間が短くなったように感じる。

 

手間がかかって時間がかかるのが当たり前で

そこに焦りや苛立ちがなければ

そのかけている時間がゆっくり流れ

味わう時間もゆっくり流れ

時間の質や濃さが生まれるように感じる。

 

朝に慌ただしく作るお弁当であっても

その手間は食べる人の心身をともに育む。

 

豊かさは

感じる質に。

時間に感じる質にも豊かさがあるように感じる。

 

 

ありがとうについて

「ありがとう」って言ったり、思ったりしてはいるけど

たまに

なんかウソくさいような

言うべきところだから、思うべきところだから

言ったり思ったりしているような時がある。と

今朝認めた。

 

そう、何か気持ち悪かった。

 

社交辞令的な立ち振る舞いでも悪くはないが。

 

なんか気持ち悪い。

 

あー。そーかぁ。

ありがとう、の前に私、きちんと「嬉しい」を感じていなかった。

嬉しいなぁっていう喜び。

 

嬉しいなぁって感じたら

ありがとうは

まるで同義語のように続けて出てくるもんなんだな。

 

最近、耳にした言葉で

「自分への冒涜」って言葉がやけに胸に刺さった。

 

自分が喜ぶことを許せてないのかな。

分析はもういいや。

 

いっぱい喜んでみよう。

力一杯に喜んでみよう。

私は何が嬉しいのかな。

「嬉しい」を探してみよう。

 

 

#気づき #感謝 #許可

価値について

ボラカイ島の滞在も残すところ、あと5日。

昨日の午後、突然に大きな無価値観が浮上した。

 

せっかく戻った良いお天気。

午後は日陰が少なくなってビーチに留まるのは一苦労ではあったが

海に浸かろうと出かけた。

 

朝は穏やかだった海も波が大きくうねっていた。

ただ押し寄せる波にリズムを合わせて飛んでみたり

しゃがんでみたり。

心の中では

「生きているだけで価値がある」が私には全く分からない!

と叫んでいた。

「教えてください」「私にはこれっぽちも分からない!」

 

周りには人はいなかったが気がつくと小魚の群れがいくつも

私と同じように大きく盛り上がる波、沈む波に乗って泳いでいた。

少し大きめの小魚が私に近づいて目があった。

周りには小魚たち。

不規則な押し寄せる波。

 

この魚たちに価値はあるのか…?

私の意識に上がったものは

「金にならない」「金にならなきゃ価値はない」だった。

 

価値とは、結局は人間だけの意識じゃないか。

しかもその計りはお金。

いくらになるか。

もちろん、それ以外の意識はあるが

その時に私の周波数があった意識はそこだった。

 

衝撃的ではあった。

だけどその時点で私の中でおこっていた叫び。

その原点は

「金にならないものは価値がない」だった。

 

一旦、海から上がり浜で横になった。

しばらくするとスズメが一羽近寄ってきて

私はしばらく眺めていた。

スズメが居ても誰も気に留めない。

お金にならないから。

それがしっくりは来たが

 

では、海で波に漂う小魚の群れ

浜にいるスズメ

彼らに価値はないのか?

本当に存在価値がないと言えるのか?

 

ただ当たり前にそこにいるだけ。

だけど当たり前なんかじゃなくて

 

小魚たちの存在を感じて認めて共に波を共有した瞬間

スズメの存在を感じて認めて

いる、存在しているを共有した瞬間

 

人間だけが持っている計りである「価値」の

外に出たように感じた。

 

それは多分、相手の存在を認めた瞬間に

小魚たちと私。

スズメと私。

ただいるだけ。

ただあるだけで計りようのない

計る必要のない

価値。

ただ今ここに生きているだけでいい。

 

帰宅してからノートに書き出してみた。

私は金にならないから価値がない。

私は金を生み出せないから価値がない。

私は十分なお金を持っていないから価値がない。

 

恐ろしいね。

こんな思い込み、制約を潜在的に持っていたなんて。

お金に大変申し訳ない。

お金のおかげで私は十分に自分を見つめる体験をする時間や場所を

いただいている。

 

不健全なリンクをこれで断ち切れていたらいいんだが。

根深い自分に対する無価値観が薄らいだように感じる。

「生きているだけで価値がある」が分かった!と言い切れない

モヤつきが少しあるように感じているのは

まだ分かってないよ。という本質からの声なのか、または

もっと難しいはずだ。ちゃんと分かりきるまでもっと考えてよ

というエゴからの混乱なのか

今はまだ識別がつかない。

 

 

#気づき #価値観 #自己受容

 

 

 

信じるって一体…

人は人を信じることが出来る。

 

誰かの人格や性格を

あなたはこういう人だと信じる、

あなたはこういう人であって欲しい、

 

というのは

「信じる」から大きく逸脱している。

 

ポジティブに信じるも

ネガティブに信じるも

それは自分の都合。

 

古くからの友人数名のグループがあり長い間に色々とそれぞれにあっても

お陰様でここ数年は年に1回、皆で揃って旅行に行くようになった。

 

今年もその準備が始まった頃、1人の友人が

今は理由を言えないんだけど今年は旅行に参加できない

とグループLINEにメッセージをくれた。

よほどの事があったのは明らかではあった。

誰一人と詰め寄ることなどなく、彼女の決断を尊重して

無理に返信したりしなくていいよ。いつでも戻ってきて。

辛いだろうからこのLINEグループはそれまで止めておくね。と

なった。

 

家族ぐるみに近いような長年の付き合いの私たちは皆んな胸が痛んだ。

家族に何かがあったのだろうか…。

考えたら恐ろしくなるくらいで

その後、みんな其々に思いながら彼女への心配などは口にしないで

触れないようにした。

なんて素晴らしい人たちと仲間でいられるんだろう。私は幸運だ。

 

時々、彼女を思い出しては

どんな理由で今、苦しんでいるのか分からないが

よほどの事だろうと思うと涙が出そうになった。

 

私に出来ることは

その友人は今は胸が張り裂けそうなはどに苦しんでいるけど

さらにその胸の奥には

絶対的な力強い美しい光がある。

と信じることだけだった。

 

その光とは何なのだろう。

神様なのか、何なのかは分からない。

定義はいらないのかもしれない。

 

人生にはハッピーエンドでは無いことも多々ある。

仕方のないことが沢山ある。

 

だからと言って

ハッピーエンドだけが恩寵ではない。

 

この勇敢な私の友人の何を私は信じたのか。

それは私の都合だっただろうか。

祈りのようなものだろうか。

祈りはコントロールだろうか。

 

ただ言えるのは

私の中で感じたものは

自己都合でもコントロールでもなかった何か信頼のような

深いものだった。

 

今朝、半年近くぶりに彼女が個人的にLINEをくれた。

ようやく少しずつ前に進み始め

話すと長いのでいつかゆっくり話せたらと思います。と。

私は、

心配かけたから話さなきゃとは考えないで

自分を優先し大切にして

自分のペースでいればいいよ

と返信した。

真に自分を優先し大切にしている人は

周りからも優先し受け入れられるよ

私たち仲間がそうであったように

と伝えた。

 

生きていると色んなことがあるけど

それが生きている

ということ。

 

それでも苦しいこと、悲しいこと、絶望的なこと

それらが最小限で

周りからの温かいサポートや想いがあり

少しでも支え合えますように。

 

 

 

 

 

特別な

今日の気づき。

持論ではあるが。

 

「特別じゃない人はいない。

 

 特別な人なんていない。」

 

何かを、誰かを、特別な優れた存在と認識することと

特別な優れた存在と崇めることは同じではない。

崇めること、崇拝することに尊敬と敬意は持続しない。

 

誰かを特別な存在だと認識した時点で

特別とそうでないものとを区別する視点が生まれる。

点数をつけるようになる。採点するようになる。

その人と自分を比べるようになる。

そして常に自分は追いかける側であり、その人より下だ。

ただしその人のお膝元にいるならば自分は特別に近く

そこにいない人は自分より下だとなる。

 

恐らく人は皆、潜在的に自分が特別であると認めたい体感したい

という願望がある。

人によって大小さまざまかもしれないが

意識できない潜在意識のさらに奥深くに横たわる

人類の集合的無意識の領域。

ここにはあらゆる人間の意識があって

無意識領域ではあるけど、自分が現在どんな意識で生きているか

それに気づいて意識的にどうありたいかを選ぶことは出来ると思う。

 

特別じゃない人はいない。

特別な人なんていない。

 

そんな言葉がふと沸き起こって

私の中で何が言いたいのか感じているけれど

言語化することに挑戦してみた。

 

人と人はただ違うだけ。違いがあるだけ。

たとえそこにランク付けがあったとしても

尊厳がある。

 

特別な人なんじゃない。

その人の素晴らしいところが発揮されているだけ。

 

昔、命の恩人から教わった。

本物の人と人のコミュニケーションとは

「私はこんなに素晴らしいんです。あなたの素晴らしさを

 見せてください。」

という自己卑下やヘリ下りのない意識。

「なんてあなたは素晴らしいのでしょう。

 私の素晴らしさはこうです。」

優劣をつけないピュアな交流。

 

私も他ならぬ集合的無意識に繋がっている人間。

様々な場面で様々な意識につながる。

心地よい感覚も不快な感覚も。

 

不快なものを直そうとするのをやめた。

 

全ての意識がある所から繋がった先に

私たち一人ひとりの意識があるのなら

私たちは選べるはず。

それには気づくこと。

意識的に思いやりや愛の意識など心地よい意識でいる方を選択していたら

不快な意識は0にはならないがパワーや支配力は弱くなると

信じたい。

 

ずいぶんデッカい話し。

人類全体の総合無意識だなんて。

そこには人の快も不快も全ての意識があってどちらも無くなりはしないなんて。

だけど思いやりや愛の反対の意識を人類全体の集合的無意識の中で弱める

ことはできると信じる

だなんて。

ボラカイ島 先住民アティ族の村。理不尽な目にも沢山あったであろう。受容したからこそ得られるのか。ここは素晴らしく平和なエネルギー溢れる場所。

#気づき

#特別な存在

#無意識

#集合的無意識

 

 

 

 

 

 

罪悪感って

罪悪感をたくさん持っていた。

多分、気づけていないものもまだあると思う。

 

罪悪感は自らに罪と罰を与える。

 

若い頃は罪悪感がなくなったら

また同じ過ちをしてしまうから無くさない方が良い

と思っていた。

そうやって自分へ罪を着せ罰を与え続けていたんだな。

 

それは何の役にも立たないどころか

自分を身動きできないまでにした。

罪と罰が大成功を収めていた訳だ。

 

間違えてしまった。

失敗してしまった。

私のせいで苦しめてしまった。傷つけてしまった。

本当にごめんなさい。

これが私です。

そしてとことん自分を責める。

 

そんな負のループの苦しみ

味わったことはありますか?

 

今日ふと思ったことは

してしまった失敗、間違い、それは本当に失敗なんだろうか。

何かを壊してしまった。それは本当に失敗なんだろうか。

 

それが起こった目の前では

失敗としか見えないだろう。

だけど私たちに見えている場所は

かなり限られているとしたら?

 

その起きた、起こしてしまった出来事から

同時に何か違うことが

人によって、または別の場所で起きているだなんて

考えられないだろう。

人は大抵、見えることしか受け付けない。

 

悲惨なことが目の前で起きているのに

まさかそれが原因で遠く離れたところでは

それが起きたおかげで何かが動き始める。

そんな影響力があるとしたら

自分がしてしまった失敗、失態は

広く大きな世界では

ひとつの揺さぶりでしかない。

原因と結果は必ずしも負の連鎖とは限らないかもしれない。

 

できれば失敗も失態も

ましてや誰かを悲しませたり傷つけるような事は

起きて欲しくない。

だけど出来事は経験して感情を味わっても

決して自分を責めて罪と罰を与えて自分を牢獄に留まり続けさせる

ものである必要はない。

経験の役立て方は他にあるはず。

 

私がしてしまった沢山の失敗や失態。

私の見えないところでは

その出来事がきっかけで何かがプラスに動いたかもしれない。

ただ私には見えていない、見える範囲ではなかった。

これからは

この捉え方を採用して

もう罪悪感は私の世界には維持しない。

 

 

 

昔に見た「タッチ」というアメリカのドラマの1エピソードを

思い出す。

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TOUCH(タッチ) ***ストーリー*あらすじ***

2012年に放送開始した米FOXのミステリードラマ。

9・11の米同時多発テロによって妻を失った元新聞記者のマーティンは、

無言症の息子ジェイクが次々と示す数字に特別な意味があると気づく。

それは世界の人々を救うための奇跡的な手がかりだった。

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#気づき

#罪悪感