気づきつづり

ボーっとしているときにフワッと湧く気づき。それをどこかにつづりたくて・・・

ネガティヴな前提

最近、見たり、聞いたり、言われたり

した言葉に

手放してね。

情報収集してね。

などなどがあるんだけど

どーも私はそれをダメ出しと

受け止めているよーだ。

 

手放しできてない。

情報収集してない。

ない。を前提にして動くから不快で

精一杯にやる

なんてできない。

なんと愚かで勿体ないと気づいた。

 

私はもっともっと手放していいんだ。

情報は溢れているんだ。まだまだ知らないこと

いっぱいあって知ることが出来るんだ。

そのように受け止める事だって出来るのに。

 

何か度々目にする入ってくる言葉は

メッセージで

ダメ出しなんかじゃさらさらなくて

もっともっといいんだよ〜

出し切れ〜

求めろ〜

と単なる強調なのかもしれない。

 

偏見

スターシード。

 

私は最近よくこの言葉を耳にするのだけれど

私は何となくこの言葉(名称)が苦手。

何を感じるかって、差別とまでは行かないが、識別に使われるように感じるから。

 

多分,その名詞を聞き始めた頃、この言葉を使っている人の話を聞いた時

私がいた環境で

そこにいた人達に勝手な勘違から偏見の目でしか見れていなくて、

その人たちからそのようなエネルギーがあると

感じたからなんだろうな、と気づいた。

 

実際にはどーだったのか。

その言葉を使って表現していた人の意識のもとにあったものを

私が正確に感じ取ったのか否か。

だとしても、この言葉を使って表現する人の全員が同じとは言えないし

だいたい、私はやや毛嫌いして

では一体「スターシード」とはどういうものなのか

意味も何を指すのかも全く知らないではないか。

調べたりしてないではないか。

 

こんな事って、もしかしたら他にも多々起きているかもしれない。

初めから無意識に色眼鏡をかけて見たり、聞いたりして

そのまま知らぬ間に自分の意識に潜在させてしまう。

潜在意識に沈んでしまったら掘り出して手放すのに手こずる。

取り込んでしまった意識は私の常識となってしまうから厄介だ。

 

実際のところを知った上で、どう思うか、感じるかは後は

私のオリジナル、感性、個性になる。

 

それに、

偏見を持ってしまったかのような今回の件、

そこに私がこだわりたいこと、大事にしたいことがあるように感じる。

そこに気づいたら

また記したいと思う。

 

クセ

「何かが起きた時、まず最初に自分のせいだ、と思うでしょ」

は、何年か前に中学1年からの友達が私の住まいに泊まって

2人で簡単な朝食を一緒に取っている時に言った言葉。

 

私は「えーっ‼…。あ、そうだね。」「何で知ってるの?(ケラケラ」

 

会話の最初の友達の言葉は「あなたは基本、ネガティブだから」

 

私は、それをネガティブだと言うとは少しも思ってなかったよ~と言って

2人で笑い転げた。

友達って本当にありがたい。

 

自分の事って分かってないもんだ。

 

多分、幼少のころからそんな思い込みだったように思う。

大人になって人の話や書籍などからの影響で

その考え方のリンクは揺るぎないものになっていたと思う。

 

「すべては自分のために起こる」

その捉え方が「すべては自分のせいだ」「私が悪い」「私がどこかで間違えた」

きっと悪いことが起きた事態だけに限らないかもしれない。

何か良いこと、素晴らしいことが起きた時にも

「すべては私のお陰」

と無意識でも思っていたかもしれない。

自分にかけた洗脳は自動操縦ではたらく。

 

なんて傲りだ。

スピな考え方で敬遠されがちだけど

「すべては自分のために起こる」は智慧であり真実だと思う。

 

昨夜は大好きなTED でフランスの海洋活動家のプレゼンを聞いた。

「すべては繋がっている」と言っていた。

そのとおりだ思う。

 

日本語TED新着: 海を守る人は自分自身を守れる人 | ジャン=ミッシェル・クストー | TEDxRio+20 (ted-ja.com)

 

話しが飛躍し過ぎかもしれないけど

すべてが繋がっていて すべてはひとつ なら

すべては私のせいだ、は大変な傲りだ。と今朝、気づいた。

なにか大きなものの中の私たちがひとつ、ひとつで

なにか大きな力が働ていて

そこで起きた出来事に見るもの、体験する事は人それぞれで同じじゃなくて

一見、自分の落ち度で始まった出来事であっても自分を責めることなしに

観察できたらなら、自分がその出来事で感じている痛み、苦しみに

向き合うことはしても 共に痛みを負った人の世界で

どうしてあげられるか、なんて考えるのは傲りの極みだ。

 

目の前で起きてる現実は

私のため、であっても私のせいではなく

同じ現実を見ている人がどのようにそれを見て解釈しているか

私には分からない事だし、決めつけられない。

その人の分野、範囲なんだから。

 

明らかな自分の落ち度は心から謝罪できる。

私はそれ以上に 責任を果たさなきゃ、みたいな心境になっていた。

私にできることは自分に対応することだけなんだ。

自分を正直に再確認し再定義し、あり方を認めていくだけ。

人に何かできる事があるとしたらそれは

私のあり方が唯一無二の正真正銘の私の素に立ち還り

そのもので在り続けること。

 

寄り添う

思いやる

力づけたい

役に立ちたい

 

その質は、はき違えやすい。

大切におもう人の前でこそ、正真正銘の私でい続けたいたいな。

 

私をいつも支えてくれる友達。

何をする言うわけでもなく、ただ存在していてくれるだけで

私は支えられています。

本当にありがとう。

 

 

 

戦争をやめる。

この人、間違っている。教えてあげたい。直してあげたい。

 

そんなことを自分が思ったなんて考えたくなかった。

 

だけど、それをしたんだな。

 

相手のことを自分が思っているような人であって欲しい。変えたい。

 

私が正論で、あなたは間違っている。

 

コントロールしたい。良い方へ変えたい。良いとは自分の都合の良い方へ。

 

 

それが戦争。戦争の始まり。

 

個人間であれ、大きくなれば国家間で。

 

周りの人たちも巻き込み、恐れさせ、自由を奪う。

 

100%相手だけが悪い。原因だ。なんてことはあり得ない。

 

むしろ、100%自分のせい。自分のため。

 

私はもう、戦争に加担したくない。しない。

 

私が加担してしまった戦争。

 

責任を取っていくとは、自分を掘り下げ見つめ直し、欲を認め

 

自分の中の悪に見えるものを悪として罰し続けないこと。

 

そうして今から何を大切にして生きていくか選ぶことは出来る。

 

他人は変えられないし、変えちゃいけない。変えられるのは自分だけ。

 

自分と平和協定を結ぶ。認め、赦し、平和と自由な世界で生きると決める。

 

 

ステラ

 「ステラ」という古い映画をご存じでしょうか。

制作は1990年主演はベット・ミドラー

今、ググってみても最後は号泣もの、と書かれた記事が見受けられます。

私も何度観ても最後は号泣したものです。

最近、友人とベット・ミドラーが会話にのぼり、それで思い出しました。

 

観てない方にはネタバレになってしまってはいけないのですが

最後に母の無償の愛を垣間見、ほとんどの方が号泣に至る、

というものなのですが、

ふと思いました。

 

何がそこまで人の奥深くを揺さぶり、号泣にまで至らせるのか。

私などはおえつするほどの号泣だった。

何に触れて それが起こるのか。

 

人って当たり前のこのとには、

当たり前になっている事には、

無反応じゃないですか。

ヘタしたら

当たり前だ、と認識している事には感謝しない。

買い物してお金を払ったら店員さんに品物を渡される。

家族の誰かが食事を作ってくれる。

などなど。

 

娘の最高に幸せな瞬間を ともに喜ぶよりも

見届けるだけで、その場でできる最高の愛情を娘に向ける

そんなステラの姿には私欲がなく感傷的な自己卑下もなく

地に足がついた姿勢とほほえみに号泣してしますのですが

もしも、

そう、私はそんな境地に至ったことがないので

もしも、

それが「当たり前」の人にとっては

号泣するほど胸の内を(それを何といったらよいのか)

身体の芯部から

なにか引っ張り出されるような熱いもので号泣させられたりは

しないのかもしれない。

 

ならば、なぜそれが起こるんだろ?とふと思ったわけです。

 

頭、脳、思考、記憶

そこでは理解や解釈ができない何か。

私のように出産もしてない=親になっていない。

また、両親も看取ってもう会話や触れ合う事もない

人間にとって

最初に考えたことは

「私にはこのような無償の愛が無いんじゃないか」という考え。

でも号泣までさせるそのパワーはそんなものじゃないと

どこかで分かる。

これはもしや、もしかしたら

私が忘れているか 思い出せないだけの

「私から誰かに向けた無償の愛に触れたから」

でもなく、

思考、記憶では理解や解釈できない、立体的に見ることもできない

ましてや記憶もない

「誰かが私へ注いでくれた無償の愛に触れたから」

なんじゃないかと。

 

いまだにしがみついている”らしい″私の中の

「私は愛されなかった」という頑丈なぶっとい柱がゆらぎ

深部から熱いものがこみ上げ涙がこぼれた。

 

最近、私泣いてないなぁ。最後に泣いたのいつだっけ。と思っていた。

少なくとも今、8月だけど今年は1度も泣いてないし

去年は泣いたかな?

たまに泣くのって大事。

すっきりして何かが終わる。

最近、泣いてないなと思ったら号泣間違いなしな映画とか見ると良いのだワ。

Beautiful

心配不要と思うけど誰もこの記事を読みませんように。

何故って、我ながら異様かなと思うから。

説明つかない。

うまく言葉に表現できるか分からないから。

 

それは何でもない時に湧いてくる。

無意識であっても散々に自分を責めて来たこととか、

徹底的に自己卑下した過去とか、

起こったこと、しでかしたこと、傍観者であった出来事

どんな瞬間、それがどんなにデカいことでも

その瞬間

それはただ、

美しい。

失敗、間違い、正解、いろんな見方、感じ方、体験をしたと

そう、経験したと考えて、それが現実に起きたこととして記憶し

材料にしてきたけど

それらは、とてつもなく人生のインパクトとなったと感じてきたけれど

それらも、単なる瞬間で

そのどの瞬間を傷や汚点やトラウマやと

深刻に取り扱う事もできるし、

そのようにしてきたみたいだけど

どの、どんな瞬間もそれは、

ただ

美しい。

 

そんなような感覚に何でもない時に陥った。

 

聞こえる会話がどうだとか、

目の前にいる人がどうだとか

苦しそうな人が視界にいるとか

不自由な足を引きずりながら歩く人がいたり

お年寄りが懸命に人込みを歩いていたり

 

非常に異常にセンシティブになってしまうけれど

瞬間

そう瞬間の繰り返し。

そしてどの瞬間も1つの例外なく

ただ

美しい。

 

身の回りには美しい

だらけ。

私のどの瞬間もただ美しい。

あの失態も

あの出来事も

あの汚点も

例外は1つもない。

 

そして

ただ愛があるだけだったんだよね。

休日の横浜の人込みを歩きながら。

こんな事ってあるの?

もう説明や理由なんて出る幕がなかった。

快適。まずは・・・

「子供のころ何になりたかった?」

と最近、問いかけられた時に記憶に蘇った映像は紙に鉛筆で書いたステージでバレリーナが躍る光景。

私、バレリーナになりたかったの?

 

回答を紙に書き出す際にはとてもバレリーナとはかけなかった。

私の子供時代にも現在の私からもかけ離れすぎた光景にしか思えなかったから。

で、書いたことは、あれ?何だったけ。職人。

まぁ、それもウソではない。

 

クリエイターになりたい。表現したいという渇望をかかえながらも

私が私を表現する事、本心を表す事は身体の芯から緊張するくらいに

私にとっては恐ろしく怖くて仕方がないこと。

それでもここ数年の私はゆっくりとだけど

どうであれ、自分を隠さないようになって来ていると思う。

昨日もそんな自分を感じる瞬間があった。

人に合わせた私でいようとしない。

それでも迷惑なんて掛からないし。

喫煙者であることを隠そうとする私がいた。

やめる気もなければ悪い事とも思っていないのに。

タバコを吸う人が嫌い。一緒にいられない。と思う人は近づいて来ないだろうし去っても行くのだろう。

言い訳でもないだろうけど、喫煙者でない人と一緒にいたら

吸いたい時には喫煙所に行きますと言い、同席で吸わないし

そこら辺の気遣というか、それくらいは当たり前に出来ている。

それでも時々、相手をがっかりさせてしまうのではないか

というような可笑しな捉え方で隠れて煙草を吸うような時があった。

なんか尻が浮いてるような落ち着かない感覚。

それに悲しい感覚。

 

人を快適にしてあげたい。という考え方もおかしな事だな。

人に快適さを提供したい。誰かが快適さを味わってくれることが私の喜び

なのは私の長所、強味でもあるけれど

バランスを少しでも崩せば思い上がり、押しつけ、強要、コントロールになるし

 

昨日、そーだよねっ!ってガッツリつかんだお言葉と出会った。

シャンパンタワーの法則”

自分を満たせば溢れて繋がって続くグラスへ流れていく。

(高級な上質なシャンパンが!)

よーし。遠慮しないでまずはビシバシ私を満たしまくるぞ。

 

 

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