気づきつづり

ボーっとしているときにフワッと湧く気づき。それをどこかにつづりたくて・・・

ありがとうについて

「ありがとう」って言ったり、思ったりしてはいるけど

たまに

なんかウソくさいような

言うべきところだから、思うべきところだから

言ったり思ったりしているような時がある。と

今朝認めた。

 

そう、何か気持ち悪かった。

 

社交辞令的な立ち振る舞いでも悪くはないが。

 

なんか気持ち悪い。

 

あー。そーかぁ。

ありがとう、の前に私、きちんと「嬉しい」を感じていなかった。

嬉しいなぁっていう喜び。

 

嬉しいなぁって感じたら

ありがとうは

まるで同義語のように続けて出てくるもんなんだな。

 

最近、耳にした言葉で

「自分への冒涜」って言葉がやけに胸に刺さった。

 

自分が喜ぶことを許せてないのかな。

分析はもういいや。

 

いっぱい喜んでみよう。

力一杯に喜んでみよう。

私は何が嬉しいのかな。

「嬉しい」を探してみよう。

 

 

#気づき #感謝 #許可

価値について

ボラカイ島の滞在も残すところ、あと5日。

昨日の午後、突然に大きな無価値観が浮上した。

 

せっかく戻った良いお天気。

午後は日陰が少なくなってビーチに留まるのは一苦労ではあったが

海に浸かろうと出かけた。

 

朝は穏やかだった海も波が大きくうねっていた。

ただ押し寄せる波にリズムを合わせて飛んでみたり

しゃがんでみたり。

心の中では

「生きているだけで価値がある」が私には全く分からない!

と叫んでいた。

「教えてください」「私にはこれっぽちも分からない!」

 

周りには人はいなかったが気がつくと小魚の群れがいくつも

私と同じように大きく盛り上がる波、沈む波に乗って泳いでいた。

少し大きめの小魚が私に近づいて目があった。

周りには小魚たち。

不規則な押し寄せる波。

 

この魚たちに価値はあるのか…?

私の意識に上がったものは

「金にならない」「金にならなきゃ価値はない」だった。

 

価値とは、結局は人間だけの意識じゃないか。

しかもその計りはお金。

いくらになるか。

もちろん、それ以外の意識はあるが

その時に私の周波数があった意識はそこだった。

 

衝撃的ではあった。

だけどその時点で私の中でおこっていた叫び。

その原点は

「金にならないものは価値がない」だった。

 

一旦、海から上がり浜で横になった。

しばらくするとスズメが一羽近寄ってきて

私はしばらく眺めていた。

スズメが居ても誰も気に留めない。

お金にならないから。

それがしっくりは来たが

 

では、海で波に漂う小魚の群れ

浜にいるスズメ

彼らに価値はないのか?

本当に存在価値がないと言えるのか?

 

ただ当たり前にそこにいるだけ。

だけど当たり前なんかじゃなくて

 

小魚たちの存在を感じて認めて共に波を共有した瞬間

スズメの存在を感じて認めて

いる、存在しているを共有した瞬間

 

人間だけが持っている計りである「価値」の

外に出たように感じた。

 

それは多分、相手の存在を認めた瞬間に

小魚たちと私。

スズメと私。

ただいるだけ。

ただあるだけで計りようのない

計る必要のない

価値。

ただ今ここに生きているだけでいい。

 

帰宅してからノートに書き出してみた。

私は金にならないから価値がない。

私は金を生み出せないから価値がない。

私は十分なお金を持っていないから価値がない。

 

恐ろしいね。

こんな思い込み、制約を潜在的に持っていたなんて。

お金に大変申し訳ない。

お金のおかげで私は十分に自分を見つめる体験をする時間や場所を

いただいている。

 

不健全なリンクをこれで断ち切れていたらいいんだが。

根深い自分に対する無価値観が薄らいだように感じる。

「生きているだけで価値がある」が分かった!と言い切れない

モヤつきが少しあるように感じているのは

まだ分かってないよ。という本質からの声なのか、または

もっと難しいはずだ。ちゃんと分かりきるまでもっと考えてよ

というエゴからの混乱なのか

今はまだ識別がつかない。

 

 

#気づき #価値観 #自己受容

 

 

 

信じるって一体…

人は人を信じることが出来る。

 

誰かの人格や性格を

あなたはこういう人だと信じる、

あなたはこういう人であって欲しい、

 

というのは

「信じる」から大きく逸脱している。

 

ポジティブに信じるも

ネガティブに信じるも

それは自分の都合。

 

古くからの友人数名のグループがあり長い間に色々とそれぞれにあっても

お陰様でここ数年は年に1回、皆で揃って旅行に行くようになった。

 

今年もその準備が始まった頃、1人の友人が

今は理由を言えないんだけど今年は旅行に参加できない

とグループLINEにメッセージをくれた。

よほどの事があったのは明らかではあった。

誰一人と詰め寄ることなどなく、彼女の決断を尊重して

無理に返信したりしなくていいよ。いつでも戻ってきて。

辛いだろうからこのLINEグループはそれまで止めておくね。と

なった。

 

家族ぐるみに近いような長年の付き合いの私たちは皆んな胸が痛んだ。

家族に何かがあったのだろうか…。

考えたら恐ろしくなるくらいで

その後、みんな其々に思いながら彼女への心配などは口にしないで

触れないようにした。

なんて素晴らしい人たちと仲間でいられるんだろう。私は幸運だ。

 

時々、彼女を思い出しては

どんな理由で今、苦しんでいるのか分からないが

よほどの事だろうと思うと涙が出そうになった。

 

私に出来ることは

その友人は今は胸が張り裂けそうなはどに苦しんでいるけど

さらにその胸の奥には

絶対的な力強い美しい光がある。

と信じることだけだった。

 

その光とは何なのだろう。

神様なのか、何なのかは分からない。

定義はいらないのかもしれない。

 

人生にはハッピーエンドでは無いことも多々ある。

仕方のないことが沢山ある。

 

だからと言って

ハッピーエンドだけが恩寵ではない。

 

この勇敢な私の友人の何を私は信じたのか。

それは私の都合だっただろうか。

祈りのようなものだろうか。

祈りはコントロールだろうか。

 

ただ言えるのは

私の中で感じたものは

自己都合でもコントロールでもなかった何か信頼のような

深いものだった。

 

今朝、半年近くぶりに彼女が個人的にLINEをくれた。

ようやく少しずつ前に進み始め

話すと長いのでいつかゆっくり話せたらと思います。と。

私は、

心配かけたから話さなきゃとは考えないで

自分を優先し大切にして

自分のペースでいればいいよ

と返信した。

真に自分を優先し大切にしている人は

周りからも優先し受け入れられるよ

私たち仲間がそうであったように

と伝えた。

 

生きていると色んなことがあるけど

それが生きている

ということ。

 

それでも苦しいこと、悲しいこと、絶望的なこと

それらが最小限で

周りからの温かいサポートや想いがあり

少しでも支え合えますように。

 

 

 

 

 

特別な

今日の気づき。

持論ではあるが。

 

「特別じゃない人はいない。

 

 特別な人なんていない。」

 

何かを、誰かを、特別な優れた存在と認識することと

特別な優れた存在と崇めることは同じではない。

崇めること、崇拝することに尊敬と敬意は持続しない。

 

誰かを特別な存在だと認識した時点で

特別とそうでないものとを区別する視点が生まれる。

点数をつけるようになる。採点するようになる。

その人と自分を比べるようになる。

そして常に自分は追いかける側であり、その人より下だ。

ただしその人のお膝元にいるならば自分は特別に近く

そこにいない人は自分より下だとなる。

 

恐らく人は皆、潜在的に自分が特別であると認めたい体感したい

という願望がある。

人によって大小さまざまかもしれないが

意識できない潜在意識のさらに奥深くに横たわる

人類の集合的無意識の領域。

ここにはあらゆる人間の意識があって

無意識領域ではあるけど、自分が現在どんな意識で生きているか

それに気づいて意識的にどうありたいかを選ぶことは出来ると思う。

 

特別じゃない人はいない。

特別な人なんていない。

 

そんな言葉がふと沸き起こって

私の中で何が言いたいのか感じているけれど

言語化することに挑戦してみた。

 

人と人はただ違うだけ。違いがあるだけ。

たとえそこにランク付けがあったとしても

尊厳がある。

 

特別な人なんじゃない。

その人の素晴らしいところが発揮されているだけ。

 

昔、命の恩人から教わった。

本物の人と人のコミュニケーションとは

「私はこんなに素晴らしいんです。あなたの素晴らしさを

 見せてください。」

という自己卑下やヘリ下りのない意識。

「なんてあなたは素晴らしいのでしょう。

 私の素晴らしさはこうです。」

優劣をつけないピュアな交流。

 

私も他ならぬ集合的無意識に繋がっている人間。

様々な場面で様々な意識につながる。

心地よい感覚も不快な感覚も。

 

不快なものを直そうとするのをやめた。

 

全ての意識がある所から繋がった先に

私たち一人ひとりの意識があるのなら

私たちは選べるはず。

それには気づくこと。

意識的に思いやりや愛の意識など心地よい意識でいる方を選択していたら

不快な意識は0にはならないがパワーや支配力は弱くなると

信じたい。

 

ずいぶんデッカい話し。

人類全体の総合無意識だなんて。

そこには人の快も不快も全ての意識があってどちらも無くなりはしないなんて。

だけど思いやりや愛の反対の意識を人類全体の集合的無意識の中で弱める

ことはできると信じる

だなんて。

ボラカイ島 先住民アティ族の村。理不尽な目にも沢山あったであろう。受容したからこそ得られるのか。ここは素晴らしく平和なエネルギー溢れる場所。

#気づき

#特別な存在

#無意識

#集合的無意識

 

 

 

 

 

 

罪悪感って

罪悪感をたくさん持っていた。

多分、気づけていないものもまだあると思う。

 

罪悪感は自らに罪と罰を与える。

 

若い頃は罪悪感がなくなったら

また同じ過ちをしてしまうから無くさない方が良い

と思っていた。

そうやって自分へ罪を着せ罰を与え続けていたんだな。

 

それは何の役にも立たないどころか

自分を身動きできないまでにした。

罪と罰が大成功を収めていた訳だ。

 

間違えてしまった。

失敗してしまった。

私のせいで苦しめてしまった。傷つけてしまった。

本当にごめんなさい。

これが私です。

そしてとことん自分を責める。

 

そんな負のループの苦しみ

味わったことはありますか?

 

今日ふと思ったことは

してしまった失敗、間違い、それは本当に失敗なんだろうか。

何かを壊してしまった。それは本当に失敗なんだろうか。

 

それが起こった目の前では

失敗としか見えないだろう。

だけど私たちに見えている場所は

かなり限られているとしたら?

 

その起きた、起こしてしまった出来事から

同時に何か違うことが

人によって、または別の場所で起きているだなんて

考えられないだろう。

人は大抵、見えることしか受け付けない。

 

悲惨なことが目の前で起きているのに

まさかそれが原因で遠く離れたところでは

それが起きたおかげで何かが動き始める。

そんな影響力があるとしたら

自分がしてしまった失敗、失態は

広く大きな世界では

ひとつの揺さぶりでしかない。

原因と結果は必ずしも負の連鎖とは限らないかもしれない。

 

できれば失敗も失態も

ましてや誰かを悲しませたり傷つけるような事は

起きて欲しくない。

だけど出来事は経験して感情を味わっても

決して自分を責めて罪と罰を与えて自分を牢獄に留まり続けさせる

ものである必要はない。

経験の役立て方は他にあるはず。

 

私がしてしまった沢山の失敗や失態。

私の見えないところでは

その出来事がきっかけで何かがプラスに動いたかもしれない。

ただ私には見えていない、見える範囲ではなかった。

これからは

この捉え方を採用して

もう罪悪感は私の世界には維持しない。

 

 

 

昔に見た「タッチ」というアメリカのドラマの1エピソードを

思い出す。

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TOUCH(タッチ) ***ストーリー*あらすじ***

2012年に放送開始した米FOXのミステリードラマ。

9・11の米同時多発テロによって妻を失った元新聞記者のマーティンは、

無言症の息子ジェイクが次々と示す数字に特別な意味があると気づく。

それは世界の人々を救うための奇跡的な手がかりだった。

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#気づき

#罪悪感

お金と自己愛

自己愛とお金(収入)は比例する

と聞いて腑に落ちた。

 

私が自身に認識できる自己愛は皆無に近かった。

 

試行錯誤を繰り返し、あがいて、もがいて

いくらかは出来るようになってきていると

思っているけど

どーなんだろう。怪しい気もしている。

 

自己愛って一体どーしたら出来るのっ⁉️

と長年思ってた。

ありのままを受け入れるとか、

自分のブラックさも認めて受け入れるとか、

それが分からねんだーっとなるのは

私はダメ人間だと自己否定している方に

何かメリットがあるからか。

 

今日ふと、思いついたのは

自己愛の方法を知りたかったら親を手本に

したらいい。だった。

どんなに毒親だったとしても。

 

私の知人に捨て子として育ち、親の記憶はまったく

ない人がいる。

 

その人であってもだ。

親は無償の愛、無条件の愛の手本になる。

 

いつだかも書いたと思うが

天国、神様のお膝元にいた頃、地球に人間として生きに行きまーす

と手を挙げて

生まれてきているらしい私たち。

 

優しさそのものでしかない存在は優しさが一体どんなものか分からない。

それしか知らないということは向上心も湧かない。

成長してさらに大きくしようとか広げようなんて意識にすら上らない。

宇宙は広大し続けている。

何もかもそのままではいられないんだ。

 

今あるものを広げよう大きくしよう質を高めようとしたら

対比する刺激が不可欠になる。

 

優しさそのものでしかないあなたが地球に生まれるなら

私も同じ頃に生まれてあなたをイジメます。

どんなにあなたに恐れられ、憎まれ、嫌われても。

 

あなたが自分自身の優しさがどれほど素晴らしいかに気づいて

優しさが成長、成熟するには何が必要か発見できるように。

 

もしも毒親と言われるような親のもとで生きてきたとしても

親の記憶が全くない環境で生きてきたとしても

愛情深い両親のもと大切にされスクスクと成長し生きているにしても

 

あなたが選んだお母さんが

様々な状況から望まないけど産むしか選択がなく

あなたを産んだとしても

 

親という存在から受ける影響は絶大。

そこから自我が形成されて行ったとも言えるかもしれない。

 

私たちは大きな大木の1枚の葉。

空に向かって明るい方へ向かって伸び続ける。

大木には沢山の枝があり

その枝に沢山の葉があり

私たちは幹で繋がりそして地中に根を張っている。

根は伸び続ける。広がり続ける。

 

私たちの根本はきっと完全な自己愛。

 

私は親から愛されなかった。いらない子だった。と考えてきた。

親から与えられなかったと。欠如に囚われてきた。

そうではなかったと時間をかけて気づいてきた。

 

本当の私の姿を知るために。

それに気づき、認めて、輝きを広げるために。

愛されるに値しない私、の対比となるのもは何か?

隠された本来の真の姿を知るために与えられた対比、刺激。

その対比となる姿を徹底して貫いてくれたのが親。

真逆の世界を形成して与えてくれたのが親。

憎まれようが、嫌われようが。

これを無償の愛と言わずになんと言える?

 

どれだけ親に愛されていたか

それに気づくと

自分もどれほど親を愛していたかを知る。

そしてその自分自身の命も人生も存在そのものに

愛おしさを体感する。

 

これが今のところ、私が感じている言語化できる自己愛。

きっと

まだまだ成長する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もやしも買えなかった私が

3月27日にボラカイ島に到着して

いきなり真夏の環境に身を置き

気付けば5月に。

時々今自分がどこにいるんだか分からないような感覚になる。

 

最初の思いつきは、

語学学校に行こう。だった。

 

昨年末は派遣社員で働いていた職務がイレギュラーの

仕事で立て込み

毎日パソコンに何時間も張り付いて残業の日々。

仕事は嫌いじゃなかった。

それまでの約3年間くらいがかなり経済的にも精神的には

ハードだった。

借金を抱えて身動きが取れず、モヤシを買うにさえ躊躇している自分に

こんなのおかしい!

と、それまで何を譲れずに意地を張って来たのか。

一旦は何もかも立て直し。それは妥協ではない。と

とにかく時給の高い仕事に就いた。

それまでは収入を得るためだけの仕事には就かない。

と決めてかかっていた。

そして今までで1番時給の高い派遣社員の仕事を引き受けた。

引き受けた後、初出勤日まで半月くらいあったかな。

そんな中、スクラッチの宝くじで1等が当たった。

びっくりした。

借金の半分近くを返済できた。

これは妥協ではない。と意識して働き始めて間もなく

維持するには借金を増やすしかなかった両親、ご先祖から

受け継いだ不動産に売却の話が。

親戚と妹と3者での名義で正式に分けたら私が1番少ない

金額になるとところを

これまで必死に維持してくれたのだけらと売却金額の大半を

私がいただく事になった。

時は不動産バブルと言われていた割には理想的な金額では

なかったがこれ以上、借金を嵩まずわけにもいかず

高齢になった親戚の健在なうちに手放したかったこともあり

様々な葛藤を抱えたものの

2026年はいよいよ午年。還暦になる年。それも意識に大きくあり

キリが良い時かもしれないと決断した。

 

借金を完済できた。

老後の資金と言われるほどの金額には程遠いものの

独り者の私なので身内は老後のために大事にとっておいて

欲しかったと思う。

普通ならそうするところだろう。

 

私はいつだって普通じゃない。

それを良いとも悪いとも感じてはいない。

ただ申し訳ないような気持ちにはなる。

それでも私はどーしても

こんなふうに生きてきた。

こんなふうにしか生きられない。

 

今日はここまでにします。

 

(ビーチで朝の瞑想をしていると

 気づくと脇に犬が。時々私の膝や手の先にさり気なく触れてじっとしている不思議な子達)

 

#ひとり旅 #海外長期滞在 #気づき