気づきつづり

ボーっとしているときにフワッと湧く気づき。それをどこかにつづりたくて・・・

端午の節句

端午の節句になんの関係もないんだけど

今日は端午の節句


今朝のふとした気づきは

感情を味わうことを避けている。

だった。


まったく無意識に極力、感じないように

浮上しないように

して来て当たり前の機能にしてしまっているんだなぁ。


今日は徹底的に感情を味わうことを意識してみようと思う。

誠実特訓中

訳の分からない重たい気持ちになっている時や

「好きっ」っていう感覚を近頃、感じてないなぁって感じた時

そんな時は「自分に誠実になっていないよ」ってことだな

と思った。

 

私たちは沢山どこかで洗脳されていて、

全くの無意識に、いい人でいないといけないように感じていたり

誰かの言動を不快に感じても無視するよう努めて

この人、嫌い。なんて思わないようにしている。

そんなの私だけかしら。

 

誰かを 嫌いだな… と感じたっていいんだ。

相手に伝えなくていいことだし。

嫌いだな…と感じたその不快さは私個人のものだから

相手のせいじゃない。

何が不快かを感じて分かって 何が快適か分かる。

嫌いが分かって 好きが分かる。

嫌いを感じないと 好きも感じられなくなる。

知らず知らずの内にネガティブはいけません。という

指令が働いている。

 

最近、心地よいなぁという感覚を感じてないなと思ったら

心地悪いを無視して来ているかもしれない。

心地悪い感情。それは誰か人を介して味わうもの。

それはイコール相手の丸ごとを否定することではない。

私の一部を相手が見せてくれている究極の愛情になるのかも

しれない。

優しいのが良い事で、痛く厳しいのは悪いこと。というのも

どこからともなく刷り込まれた概念。

私はすべて持っている。全部持っている。

その中のどれが良いもので、どれが悪いものなんてことはない。

嫌いも好きも、協調性も自己中も、寛大さも損得勘定も

痛みも安らぎも。

私はまだまだ、自分に誠実になることの訓練中なんだなぁ。

 

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自分を愛す

この土日の2日間、朝から晩まで

3ヶ月間、学んで来たプログラムの認定講座に出て来た。

 

既に人に何かを提供するお仕事をされている方も多くいた。

皆さん素晴らしくて圧倒された。

 

正直なところ私は時々、帰りたいと感じることもあった。

つまらないとか無駄だとか感じたからではない。

 

2人位の人が前で発表した際に

「何よりも自分を愛して下さい。」

と言っていた。

 

その言葉は知っている。

 

「でも私は分からないの」

と思っていた。

 

今朝になって、ふと気づいたよーな気がしたのは

ホントは本来は皆、誰も例外なく自分を愛しているんじゃないかな。

 

それに、気づいたり、認めていたり、味わっている人と

気づかず、認めず、味わえずにいる人との

違いだけじゃなかろーか。

 

誰もが皆、本当のところは

深い本質のところでは

自分を愛している。

多分、みんな愛そのものから出来ているのだから。

今朝の夢

以前、長く家族で住んだ部屋が広々と感じられ、母がソファーに近い座椅子に腰をおろした。


あ〜と安堵の声をもらして。


私もこれなら良かったーと思い、母に これなら落ち着くねーと言った。


その後、もっと快適にするには何をしたら良いかなぁと思いを巡らせた。


そして目が覚めた。


その夢に関して最初の感想は

私はいまだに人の快適さ優先なんだな。

だった。


母を看取って15年も経つのに。

まだ私は呪縛から解かれてない。


そんな感想だった。


しばらくして、その感想について考えてみた。


私が人の快適さを意識することは 果たして そんなに悪いことだろうか。

これは私の得意とすることではないだろうか。


常に子供の頃から人の快適さ優先できて

それは間違っている、とし、

まずは自分が快適で幸せでないと本当の意味で人の役には立てないと

どこかで読んだか聞いたかし、それを自分に押し付けて来たな。と思う。


私の本質から喜べること

私の本質から本当に望むことは何だろう?と思い始めて1ヶ月経つかしら。

そんなことを意識するようになり、どうしたらいいのか分からないわ!と思う時もあるけれど何か流れに乗っているように感じてる。


今朝の夢の目的はまだ分からないけれど

今までとは違う捉え方も出来た。

これで良し。

誰かにしてあげられること

知人のお向かいさんに大変厳しい家庭環境の親子が住んでいて

中1になる娘さんを まるで親代わりのように私の知人ご夫婦はサポートしている。


60代の元気なおばあちゃんと

お父さんと中3のお兄ちゃんと生活している女の子は小さい頃から家族代々受け継がれて来た負のスパイラルのはけ口にされているように

私には見えた。


この私の知人が近くに住んでいることが彼女にとっては幸運なことになっている。

美容院に連れて行ってもらったり

旅行に連れて行ってもらったり

学校の教師や校長とも話し合いに行ってもらったり。


まだ若過ぎて選択の幅がないけれど

世の中にはこんな家庭があるんだ、

こんな夫婦があるんだ、

こんな大人がいるんだ、

と、知ることは酷なことになり得るけれど形成途上の間に「知る」ということは将来の財産になるんじゃないかな。


自分を振り返っても思う。 

人って、もしかしたら

欲しがっていたけれど得られなかった環境を人に与えてしまう。

自分はこうされたかったけど されなかったから

その寂しさが分かるから人には

こうしてあげよう。

そこまで気付いて行動できればいいのに。

実際に自分に経験がないと、

または、あるけれど気付いてなくて

経験がないと感じていることは 

人にしてあげられないのかな。


身をもって知らないと誰かに与えることは

出来ないのかな。


正当化かな。

この間、お酒も入ってたけど人に少々キツいこと言った。

 

と言うより自分の感じたままをストレートに顕にした。

 

プロチームのユニフォームの袖にCMの為の企業名を入れるのに

500万と言われた時に。

 

そのサラッと言い放つ言い方に私は

イチャモン付けたんだけど

 

私が不快に感じた元は彼女のせいではない。

 

私が大きなお金を扱えなくて

動かせなくて

それに対するジレンマからなんだ。

 

ごめんなさい。

 

言い訳、自分を正当化する考え方ではないと思いたいのだが

 

職歴の多い私。

 

行く先々でうるさい人、うるさい客

 

私を成長させてくれたのは

 

そんな うるさい人たちだった。

 

面倒だけどね。

 

あの手この手を考えたり、

改善方法を考えたり、

サラリと受け流す技を身に付けたり

 

経験には何1つ無駄はない。

 

うるさい 面倒くさいお客が私を成長させてくれたと 今は思っている。

 

得意の逆ギレかな?

正当化かな?

 

ごめんなさいね。